当事者の目的のための手段と、その手段のための関係者と

のコメント欄を見て思ったこと。半ば議論のメタ考察であるけれど。


「利益」について語るのであれば、当事者とその目的が達成されるかどうかで考えるべきであり、現状の手段を遂行する人の目的というはその従属要素でしかないだろう。現状、著作権ビジネスの流れは作品の作者とはあまりにも違うところが大きすぎる。つまり電通、テレビ局、流通のことであり、彼らは作品発展の仕組みに寄生しているものである。本来の当事者というのは、作者・作品であり、その直接の対象である読者である。


相互発展のための手段と構造、つまりプラットフォームの分析・設計では、この違いは明確に分離して考えるべきだろう。それはつまり、寄生者サイドが当事者ぶりするべきではないし、当事者サイドが寄生者の代弁をするべきでもない。


もし新手段を設計するのであれば、手段の寄生者の利益は一度白紙にして、その利益は当事者効果の面だけから考察するべきであろう。しかしいまの著作権システムでは、当事者が明らかに力関係で弱い現状があり、その状況の中では、公の問いかけや議論によって最適化させられるというのは無理だろう。そうなると当事者の戦略として、現状の手段が変化する状況は流しつつ分析して、それに見合った手段を構築していく、というのが普通に行われていったとしてもなんら不思議ではない。


で、自分の感想としては、新たな手段ができるかもしれないような状況で、古い手段の寄生者がそれにしがみつくだけが理由として、その手段を消すために現状手段に固執するという解を出すというのは、まったく議論にはなっていない、と思うのである。その手段の寄生状態によって一番利益を得ているのであればそれ自体が最適解になっているというのは明白だろう。