歴史と記憶、昔と最近

をみて振り返ってみる。


自分がfinalventさんの東京と同じくらいのころのオリンピックはサラエボやロサンゼルスで、確かに記憶にある。ロサンゼルスの開会式はロケットマンとかあって、たしかカール・ルイス一色だったような。あとはマラソンの瀬古や宗兄弟とかなあ。一方でサラエボはあまり覚えてない。橋本聖子黒岩彰は覚えてるけど、ふたりともカルガリーにも出てるし、どっちの記憶かは定かじゃない。

ただ、ロサンゼルスのすぐ前ってモスクワなんだよなあ。5才だけど、こうなるともう記憶にはない。そのせいかロスとモスクワでは、すごい間があるように感じる。これが歴史としての感覚なんだろう。サラエボのユーゴはそのあとで長い内戦にはいったし、ソウルのときだって韓国は軍事政権だったわけで、そう考えると時代的には同じ冷戦期ではあるけれど、個人感覚では明らかに違うんよなあ。モスクワってもうYAWARAでのネタだったとしか(そうそう、柔道の山下もロスにいたいた^^;)。

記憶と歴史いうのは説明しても差は出しにくいけど、自分の中で比較するとなんというかすごく違うんだということに気がついた。言葉に表現できないテレビの枠の周りというかなんというか。単に事件だけじゃなく、同じころのお笑い番組とかベータデッキとかおもちゃとか、そういうものに対して行った自分の行動とか、そういうのがおぼろげではあるけれど、必ず一緒に記憶に入ってるという感じ。


また、86年ていうと小学生で、アニメでいえばΖガンダムΖΖガンダムだし、ドラゴンボールファミコン版のCM(November 27を連呼するやつ)はいまだにすごく覚えてる。小遣いで買ったし。ファミコンΖガンダムも同じころだったはず。小学生である以上、ずっと昔だなあ。なんというかこの昔と今と大きく違うのは、やっぱり物事に対する視点なのかもしれない。いやくだらないことに惹きつけられてたんだなってうらやましく思う。

一方で、一人暮らしをしていて大学に入っていた95年はそんなに昔じゃないと感じる。震災の明け方なんて、自室はゆれで棚は崩れて目が覚め、揺れが収まるまでEpsonのパソコン(クロックは486/33Mhzくらいかな、メモリは5.6Mくらいだし、HDDはあったけど中はDOSゲーとWindows-3.1(winて打って起動)。ネットなんてない)のモニターを抑えてた。モニターは後ろがすごくでかいのに、その下の本体は横置きで結構幅は小さくて不安定だったのよ。そしてその日、後期テストは普通に行われてた。オウムだって91年かなあ、修学旅行で東京に来たときだけど、そこで選挙運動してたのみてる。


以前ドラクエ6について書いたときも感じたことだが、同じバブル後としてあまり昔のようには感じていないけど、細かくみるといろいろ変わってるんだよなあ。自分の場合、断絶がいろいろあったのもあるけれど、その当時のものでいまだに家に残ってるのって、書籍をのぞけば、ミニコンポと整理タンスくらいだ(コンポはもう使ってなくおいてあるだけ)。ただ、ここ数年はめぼしいものは買ってないんで、あと2,3年くらいはPC関係やガジェット、ゲーム機以外はこのまま行きそうな気がする。いまある家電なんてほとんど6年前津田沼に引っ越したときにそろえたものだし。ただそれでも10年後になれば、がらっと変わってるかもしれないという予感はするのだが。